大内裏の上東門・上西門(じょうさいもん)に通じる大路。
これらの門は、四位以下の者が車(牛車)を降りずに通行できる門であったが、大内裏の築垣に切れ目があるだけで門屋(建物)はなく、土でできた門という意味で上東門が「土御門」、上西門が「西土御門」と呼ばれた。[1]
『小右記』長和三(1014)年五月十六日条には、上東門になぜ「御門」と名付けたのか分からないという記述があり、『枕草子』一〇四段には、清少納言たちが雨の中を土御門まで来た際に、女房の一人が「なぜ土御門には他の御門のように屋根がないのだろう」と言ったという話がある。

『山槐記』長寛二(1164)年六月二十七日条には、昔は土御門大路が宮城(大内裏)の北側に接して一条大路と呼ばれ、後に北辺の二丁(約200メートル)を取り込んで宮城を拡張した結果、平安京の北端の大路が一条大路と呼ばれるようになったとの記述がある。
この記述に対して、藤本孝一氏はこの「昔」というのが初期の平安京とは限らないとの見解を述べており[5]、山田邦和氏は「昔」は初期の長岡京であると述べているが[6]、瀧浪貞子氏が述べるように「昔」を初期の平安京だと仮定した場合[7]、平安時代のある段階で宮城が拡張したことになり、拡張前は大宮大路~西大宮大路の区間にも道路が存在したことになる。

平安時代、左京部分のこの大路沿いには公家の邸宅が多く、東京極大路との交差点の南西角にあった藤原道長の邸宅「土御門殿(つちみかどどの)」は有名である。[8]
『紫式部日記』には、藤原彰子(ふじわらのしょうし/藤原道長の娘で一条天皇の中宮)の出産に伴う里下がりに同行した紫式部により、皇子(敦成親王[あつひらしんのう]、後の後一条天皇)誕生に沸く土御門殿の様子が描かれている。
また、西洞院大路との交差点の北東角には、陰陽師・安部清明(あべのせいめい)の邸宅があった。[8]

寛和二(986)年に花山天皇(かざんてんのう)が出家・退位した際、『大鏡』によれば内裏から上東門(土御門)を出て、この大路を通って元慶寺に向かったようである。
一行が安部清明の邸宅の前を通った時、邸宅の中から「帝が退位なさるという天変があったが、既に成ってしまったと思われる。(中略)式神[9]一人内裏に参れ」という清明の声が聞こえ、目に見えないもの(式神)が戸を押し開けて出てきて、「たった今ここを通り過ぎて行かれました」と答えたという。

大宮大路との交差点の東には、この大路をはさんで北側に織部司(おりべのつかさ/織物や染物をつかさどった役所)、南側に織部町(織部司の下級役人などの宿所)があった[8]が、律令制の崩壊に伴う織部司の衰退後、鎌倉時代前期には大宿直(おおとのい/土御門大路の北側、壬生大路の東側の大内裏内)に織手たちの集住[10]がみられるようになった。
大宿直は大舎人(おおとねり/交代で宮中に宿直し、雑用などを担った下級役人)の詰所であり[11]、織手たちは大舎人座を組織して織物生産を行うようになり[12]、これらはやがて「大舎人の綾」「大宮の絹」などと呼ばれて京都の名産とされ、西陣織のルーツとなった。[13]

この大路の右京部分は、平安時代中期以降の右京の衰退とともに衰退していったと考えられる。
昭和五十四(1979)年度の右京北辺四坊六町の発掘調査[14]では、山小路との交差点を西に入った地点で平安時代後期の土御門大路北側溝が検出された。
路面推定位置では、平安時代中期の土壙、柱穴が検出され、当該時期には路面部分の宅地化が開始されたと推定されている。

康平二(1059)年、荒廃していた正親司(おおきみのつかさ/皇族の名籍をつかさどる役所)の跡地(大内裏内)に仁和寺二世・性信入道親王(しょうしんにゅうどうしんのう)が仁和寺新堂を建立し、土御門大路の北に平行して「仁和寺街道」を開いたという。[15]
仁和寺新堂は長治二(1105)年に宇多野へ移転したが、仁和寺街道の名は残り、当初は新堂前から西靱負小路までの一町ほどの野道であったというが、後に東西に延びたようである。[16]
ちなみに、「仁和寺街道」の名の由来を御室仁和寺に向かう道であるためとするのは誤りで、仁和寺新堂の前の通りであったことによるという。[16]

平安時代中期以降、永久五(1117)年から久安四(1148)年まで約30年間里内裏(大内裏ではなく京内に置かれた内裏)となった土御門烏丸第(烏丸小路との交差点の南西角)[8]をはじめ、この大路(左京部分)に面して里内裏が営まれることが多く、元弘(1331)年に光厳天皇(こうごんてんのう)が土御門東洞院殿(東洞院大路との交差点の東側)で即位して以降、次第に内裏は土御門東洞院殿に定着していき、現在の京都御所の原型となった。[17]
『百錬抄』嘉禄三(1227)年四月二十二日条によれば、同日に町小路との交差点付近から出火し、東風に乗って燃え広がり、再建途上であった内裏が全焼した(安貞の大火)。
これによって、平安京遷都以来受け継がれてきた平安京内裏は永遠に姿を消した。[18]

南北朝時代の建武新政権期、左京部分のこの大路沿いには公家関係者に仕える武士が多く居住していたようである。[19]

室町時代、北は正親町小路、南は土御門大路、東は富小路、西は万里小路で囲まれた地域は、中央部に村上源氏の土御門家の邸宅があり、周囲(街路に面する部分)に公家・武家・寺社の使用人や商人・職人が居住して「土御門四丁町(つちみかどしちょうちょう)」と呼ばれた。[20][21]
この部分の土御門大路は、鎌倉時代~南北朝時代に本来の道幅10丈(約30m)のうちの北側の4丈(約12m)が巷所化(宅地化)され、道幅は6丈(約18m)に減少したと推定されている。[20][21]
宝徳四(1452)年に土御門有通(つちみかどありみち)が早逝して土御門家が断絶した後、土御門四丁町の敷地は大徳寺塔頭の如意庵(にょいあん)に寄進されたが、土御門邸の跡地が分割されて土倉などとなった以外は、様相に大きな変化はなかったようである。[20][21]

室町時代には、東京極大路から大宮大路にかけて7軒の酒屋があったようである。[22]

文正二/応仁元(1467)年~文明九(1477)年の応仁の乱では、戦場となった一条大路に近接しており、この小路沿いには東軍の拠点であった内裏(東洞院大路との交差点の北東角)や三宝院(さんぽういん/高倉小路との交差点の南東角)があった[23]ことから、乱の序盤でたびたび軍勢の通路となったと考えられる。
応仁元(1467)年九月には、大軍を率いて上洛した大内政弘(おおうちまさひろ/西国の有力守護大名)によって勢いづいた西軍が三宝院や浄花院(じょうげいん/室町小路との交差点付近)[24]を焼き討ちにしたり、内裏を占拠するなど攻勢を見せ、周辺の多くの公家や武家の邸宅が延焼したという。[25][26]

乱によって大宮大路以東のこの大路は荒廃し[27]、内裏のみがかろうじて生き残っている状況となったが、内裏も荒廃していたようである[28]
この大路は明応年間(1492~1501)頃までに一応の復興がなされたと考えられ、油小路以東が上京惣構(かみぎょうそうがまえ/上京の市街を囲った堀と土塀)の南限に位置したものの、実質的な市街は一筋北の正親町小路以北であった。[29]

元亀四(1573)年、北はこの大路、南は近衛大路、東は高倉小路、西は烏丸小路で囲まれた地域に、織田信長によって「新在家(しんざいけ)」という都市集落が建設された。[30]
新在家は惣構で囲まれていたという。[29]
天正年間(1573~1592)にこの通り沿いに貨幣の兌換や諸家の金・穀物を調達する者(長者)が住んでいたことから、「上長者町通」と呼ばれるようになったようである。[27]

慶長二(1597)年、寺町通との交差点の南西角(南は大炊御門通[竹屋町通]、西は高倉通まで)に豊臣秀吉の城郭風邸宅(京都新城)が造営された。[31]
令和元(2019)年~令和二(2020)年の仙洞御所内の発掘調査では、京都新城の石垣と堀の一部が検出されている。[32]

京都新城は秀吉死去後の慶長四(1599)年以降、北東部が秀吉の妻であった高台院(おね/ねね)の邸宅となったが、高台院死去後の寛永四(1627)年に解体され、跡地に後水尾天皇の仙洞御所が造営された。[32][33]

安土桃山時代には、猪熊通との交差点の西側に豊臣秀吉の聚楽第(じゅらくてい/後に豊臣秀次の邸宅となった)があった[34]が、文禄四(1595)年に聚楽第が破却された後、通りは千本通まで延長された[35]ようである。
烏丸通以東の通りは、天正年間(1573~1592)の公家町(くげまち/内裏を取り囲むように公家の邸宅が集められた区域)の整備や慶長十六(1611)年~慶長十九(1614)年の内裏の拡大などによって消滅した。[27]

江戸時代には、この通り沿いは職人と商人が入り混じっていたという。[35]
俳諧書『毛吹草』には、この通りの名産として風炉小板が挙げられている。[36]

現在の上長者町通は、住宅地の中を走る狭い通りである。
前述のように安部清明の邸宅があったり、清明の子孫が室町時代以降に「土御門家」という家名を称するなど安部清明とゆかりの深い大路であり、清明が登場する演劇にはこの大路名が付けられているものもある。

[1] 岸元史明『平安京地誌』 講談社、1974年、425~428頁

[2] 『山槐記』長寛二(1164)年六月二十七日条

[3] 『清獬眼抄』(『羣書類從』第7輯、続群書類従完成会、1959年、601頁)

[4] 『拾芥抄』所収「西京図」

[5] 藤本孝一「都城拡大論と『山塊記』」(『古代文化』第46巻第9号、1994年)

[6] 山田邦和「平安京の条坊制」(奈良女子大学21世紀COEプログラム古代日本形成の特質解明の研究教育拠点編『都城制研究1(奈良女子大学21世紀COEプログラム報告集 v.16)』奈良女子大学21世紀COEプログラム古代日本形成の特質解明の研究教育拠点、2007年)

[7] 瀧浪貞子『日本古代宮廷社会の研究』 思文閣出版、1991年、330~340頁

[8] 古代学協会・古代学研究所編『平安京提要』 角川書店、1994年、180・190~191・199~200頁

[9] 式神(しきがみ/しきじん)とは、陰陽師が使った鬼神のこと。

[10] 『明月記』安貞元(1227)年一月二十六日条・二十七日条

[11] 高橋康夫『京都中世都市史研究』 思文閣出版、1983年、313~326頁

[12] 豊田武『豊田武著作集 第1巻(座の研究)』 吉川弘文館、1982年、394~412頁

[13] 織手たちは応仁の乱によって堺などに移住するが、乱後に帰京した織手たちが住み着いたのが西軍の陣地跡(西陣)である。 『尋尊大僧正記』文明七(1475)年八月十四日条 / 高橋、前掲書(中世都市史研究)、313~326頁

[14] 「平安京右京北辺四坊六町・史跡妙心寺境内2」『昭和54年度京都市埋蔵文化財調査概要』(財)京都市埋蔵文化財研究所 2012年

[15] 高津明恭『平安京西の京厨町物語』 2006年、11頁

[16] 高津、同上、49頁

[17] 山田邦和『京都の中世史7 変貌する中世都市京都』 吉川弘文館、2023年、158~159頁

[18] 山田(邦)、同上、97頁

[19] 山田徹『京都の中世史4 南北朝内乱と京都』 吉川弘文館、2021年、78頁

[20] 高橋康夫「室町期上京土御門四丁町の形態と構造」『日本建築学会論文報告集』第283号、1979年

[21] 高橋康夫「室町期上京土御門四丁町の形成過程」『日本建築学会論文報告集』第284号、1979年

[22] 『酒屋交名』(『北野天満宮史料 古文書』 北野天満宮、1978年、34~46頁)

[23] 早島大祐・吉田賢司・大田壮一郎・松永和浩『京都の中世史5 首都京都と室町幕府』 吉川弘文館、2022年、115頁

[24] 『後愚昧記』永徳元(1381)年十二月二日条

[25] 『経覚私要鈔』応仁元(1467)年九月五日条・十日条

[26] 『応仁記』巻第二

[27] 『京都坊目誌』(『新修京都叢書』第17巻、臨川書店、1976年、283頁)

[28] 『尋尊大僧正記』文明十一(1479)年十月十九日条

[29] 高橋、前掲書(中世都市史研究)、「第30図 戦国期京都都市図」

[30] 高橋、同上、363頁

[31] 『言経卿記』慶長二(1597)年四月二十六日条・九月二十一日条

[32] (公財)京都市埋蔵文化財研究所『京都新城発掘調査広報発表資料』 2020年

[33] 尾下成敏・馬部隆弘・谷徹也『京都の中世史6 戦国乱世の都』 吉川弘文館、2021年、183頁

[34] 山田(邦)、前掲書(京都の中世史7)、239頁

[35] 『京羽二重』(『新修京都叢書』第2巻、臨川書店、1969年、21頁)

[36] 京都市編『史料京都の歴史』第4巻(市街・生業) 平凡社、1981年、438~440頁