平安時代、この小路沿いには中御門大路との交差点の南東角に民部省(みんぶしょう/戸籍や租税など民生一般を担った役所)の厨町(くりやまち/役所ごとに京内に設けられていた下級役人などの宿所)、四条大路との交差点の南西角に藤原邦恒(ふじわらのくにつね)が建てた阿弥陀堂があった。
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『春記』天喜二(1054)年五月三日条によれば、藤原邦恒の阿弥陀堂には定朝(じょうちょう/平安時代後期の仏師)作の阿弥陀如来像が安置され、美しい庭園もあったという。
この小路沿いは早くから荘園開発が進み、平安時代前期には六条大路から七条大路にかけて「侍従池領(じじゅういけのりょう)」(仁明天皇[にんみょうてんのう]の皇子の本康親王[もとやすしんのう]が開発した荘園)が形成され、平安時代後期には六角小路から高辻小路にかけて「小泉荘(こいずみのしょう)」(摂関家の荘園)が形成された。
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発掘調査
[2][3]によって、平安時代前期には三条大路との交差点の北側で、この小路をはさんで東西両側に平安京で最大級の建物を持つ一町規模の邸宅があったことが判明した。
2つの邸宅は、年代も構造も類似しているようである。
この小路も平安時代中期以降の右京の衰退とともに衰退していったと考えられる。
鎌倉時代~南北朝時代には、この小路沿いの春日小路~二条大路の田地の売買や伝領の記録が複数残っており、耕作地化が進んでいたとみられる。
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発掘調査
[3][6](一部は後述)でも、この小路沿いが平安時代後期以降、室町時代にかけて耕作地化が進んだことが判明している。
三条通から松原通にかけては、「西院村(さいいんむら)」と呼ばれる洛外農村となった。
西院村ではこの通りは「中の橋通」と呼ばれ、江戸時代から昭和時代初頭にかけて、四条中の橋(四条通との交差点)は西院村の中心地で商店が軒を連ねていたが、少し北へ行くと大きな藪があり、賑やかさと怖さが隣り合わせであったという。
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明治二十七(1894)年の平安京遷都千百年事業で編纂された『平安通志』付図「平安京舊址實測全圖」では、条坊復元線のずれを考慮すると、宇多小路が概ね姉小路~六条坊門小路で小道や水路として明治時代まで踏襲されていたことが分かる。
西高瀬川と一体化している堀子川は、六条大路(跡)付近から南は平安京の西堀川に近い流路をとっていたが、昭和七(1932)年から始まった土地区画整理事業の一環で現在の流路(佐井西通に沿うルート)に変更された。
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これとは別に、西院村の中の橋通沿いにも小川が流れていたという。
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「佐井西通」の名は、佐井通の西側を通っていることに由来する。
三条通との交差点北側に「西ノ京宇多小路町」という小路名の名残の町名が残っていたが、昭和四十五(1970)年に消滅したようである。
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