「梅小路」というからには、この小路沿いに梅の木があったのであろうか。
平安時代、朱雀大路との交差点の西側には八条大将(はちじょうのたいしょう)と呼ばれた藤原保忠(ふじわらのやすただ)の伝領地があり、「大将町」と呼ばれた。
[2]
平安時代末期、東洞院大路との交差点の北西角は八条院(鳥羽天皇の皇女)の御所の「御倉町」(荘園からの献上品を貯蔵する倉)として発展した。
[3]
八条院は建暦元(1211)年に死去したが、その後、八条院御所跡を中心に八条院町が成立した。
[4]
梅小路ではおおよそ東洞院大路から油小路にかけて、銅細工などの金属生産をはじめとする様々な職能を持った人々が集住し
[4][5]、七条町(七条大路と町小路の交差点)と並んで中世の商工業の中心地となった。
『百錬抄』嘉禄二(1226)年八月十八日条によれば、梅小路中納言と呼ばれた藤原宗隆(ふじわらのむねたか/平安時代末期~鎌倉時代前期の公家)の邸宅「梅小路亭」は、堀川小路との交差点付近にあったようである。
暦仁元(1238)年、鎌倉幕府が京に篝屋(かがりや/警護のために設けられた武士の詰所)を設置した
[7]際、この小路には大宮大路との交差点に篝屋が設置された
[8]。
八条院町は、正和二(1313)年に後宇多上皇(ごうだじょうこう)の院宣(上皇の命令を伝達する文書)によって東寺領となった
[9][10]ようであるが、南北朝の争乱でこの地は大打撃を受けて職人たちの離散を招き、工房街としての歴史に幕を閉じたようである。
[11]
発掘調査
[12][13][14][15]では、室町小路及び西洞院大路との交差点付近で、概ね平安時代末期~室町時代の鋳造関係の遺物が多数出土し、鋳物師・塗師・金屋などの手工業者の工房があったと考えられる。
文正二/応仁元(1467)年~文明九(1477)年の応仁の乱はこの小路の左京部分を荒廃させ、乱後は全く発展せず、耕作地となって洛外農村的景観を作り出した。
[16]
永禄元(1558)年五月に、京を追放されていた足利義輝(あしかがよしてる/室町幕府第十三代将軍)らが近江坂本に進軍して入京の機会を窺った際、敵対していた松永弾正(久秀)と三次日向守(長逸)が梅小路・中堂寺(中堂寺村?)に陣取ったという。
[17]
また、ルイス・フロイス(ポルトガル人宣教師)の元亀四(1573)年五月二十七日付書簡には、織田信長によって焼かれた村の1つとして「西梅小路」の名が挙げられており
[18]、戦国時代には軍勢が展開したり焼き払われることもあったようである。
江戸時代には、千本通の東側は田畑のみで人家はなかったようであるが
[19]、千本通の西側では「梅小路村」という集落が形成された
[20]。
江戸時代の地誌『京町鑑』には、三哲通が梅小路にあたる通りとして記載されているが、誤りである。
[21]
『元禄十四年実測大絵図(後補書題 )』では、位置関係の整合性が取れていない部分もあるものの、東洞院通と西洞院通の間、七条通と八条通の間に塩小路通、八条坊門通、梅小路通の3本の通りが描かれていることから、東洞院通~西洞院通には通りが存在した可能性がある。
陰陽師・安倍清明(あべのせいめい)の子孫である土御門家は、江戸時代初期に徳川家康から梅小路村の土地を与えられ、御前通との交差点の北西角に居を構えた。
[22][23]
邸内には天文台が設けられており、渋川春海(しぶかわしゅんかい)はこの天文台で天体観測を行ない、土御門家と協力して改暦を実現させた。
[23]
なお、天文台の礎石は御前通との交差点を下がったところにある円光寺(えんこうじ)に移されている。
御前通との交差点を西へ入ったところには、安倍清明を祭神とする稲住神社(いなずみじんじゃ)があり、江戸時代の地誌『山城名跡巡行志』には、稲積の社(稲住神社)の前を東へ至る小路が梅小路である旨の記述がある。
[22]
ちなみに、稲住神社の前を通る部分(御前通~御前通の一筋西)は非常に狭い通りである。
現在の梅小路通は、堀川通~大宮通のJR線沿いを通る、短く目立たない通りであり、「梅小路」というと通りよりも梅小路公園の方が有名である。
平成三十一(2019)年にはJR山陰本線(嵯峨野線)の梅小路京都西駅が開業したが、梅小路公園から付けられた駅名であり、平安京の梅小路(跡)にはかかっていない。